14-3・・・向暑もし、違う出逢い方をしていたら・・・流されてしまう そんな自分は存在しなかっただろう “お前の好きにするといい” という勧告と与えられた選択肢は 全身を萎縮させ、解放というより無下に放り捨てられたような寂寥感を与えられる -パタン- 閉じた一枚の扉がリビングとリビングより向こう側を容赦なく遮断し 二人は別々の空間に引き離された 取り残される 鏡は一人ぽつんとその現状を目の当たりにしていた リビングのテーブルの上には、投げ出したままになっている山積の書類、 それは、未処理と処理済の大よそに分類をされているだけ 先ほどまで朋樹が使用していたデータファイルが開かれたままのパソコンには 集計中のカラフルな統計グラフが表示されている そして無造作に脱ぎ捨ててあるスーツの上着は朋樹のもの 相手にもされず、身をかわされ さらにはこれからの判断を自分に委ねられる その結果は、いかようになれども選択した自己責任という重圧の付録付だ 熱くなっていたのは自分だけだったのかもしれない もっとも、ビジネスで過去に幾多の駆け引きに立たされている朋樹の経験が生かされれば こんな浅はかな謀反は手を煩わすまでもない狂言劇 朋樹の手腕を身近で実感し学ぶ立場の鏡だからこそ冷静になればもっと違った手段をとれたはず 本来なら気が休むことのない朋樹をサポートしなければならない身 それも自分の気の乱れから生じた神経過敏による咄嗟的な行動に巻き込んだのであれば言語道断 秘書として初歩的なミスを犯したことになる 失格だ・・・ グローバルに躍進する会社の重役秘書という肩書きは 自分のような人間にはよほどの縁故がなければ配属されないセクション それだけの地位を与えられているのに 「フッ・・・」 苦いため息が情けない自分を戒める 身をかがめ膝を折り 散乱した書類をテーブルの上でまとめ揃える 朋樹が作業しかけたままのファイルを終了し、パソコンをシャットダウンしようとして気づく小さな異変 それは鏡だからこそ気づくことなのだ 「これは・・・・」 手を止めた鏡が目にしたのは意表を付くものだった “変更を保存しますか” ウィンドウに現れたメッセージ 朋樹はデータを保存もせずに席を立っていたのだ 重要なデータを保存することを手抜かりするとは 日頃完璧な彼の行動から思いもよらず、鏡の口元から力なくも笑みが漏れる ちっぽけな優越感 こんなミスを 「・・・らしくない」 持ち主の代わり静かにパソコンを閉じ、そして朋樹の上着を拾い上げる こんな細々とした世話をまるで妻という立場のように続けてきた 上着に染み付く馴染んだ愛しい男の香り 身だしなみと言って、控えめで嫌味のない万人受けしそうなコロンを愛用しているが それでも高価なものなのだと承知している 迷い、不安、悦、鏡は常にその香りに包まれ今日まで過ごしてきた しかし残念ながら、どんな年月の重みでさえも血の繋がりには勝ることはできないようだ きっとこの先もずっと 鏡はぬくもりの消えた本体のない上着を身代わりをその腕に抱きしめる 目を閉じれば一緒に歩んできた道が過去へと長く続く 10年間決して誰と違えることのない香りが漂う 「こんな抜け殻ならいくらでも独占できるのに・・・」 束縛したいというのは、自分が束縛されたいという心の裏返し 朋樹が上着胸ポケットに忍ばせている携帯電話は社用私用を兼ねたもの あえて個人用の携帯を所持していない その全てのデータを管理している鏡に不安を煽るような要素は一点も見られない 持ちあがる縁談話ですらことごとく断っている 懇意にする女性もいなければ身辺もいたってクリアーで、朋樹の身の潔白は明らかなのだ そんな小さな確証を積み上げていけば何一つ疑問に思うことはありはしないのに・・・ 手近にあるソファにそっと二つ折りにした上着を名残惜しくかけた 「朋樹さん・・・日樹さんは今、一人で歩こうとしているんですよ・・・」 強要はせずに相手を誘う常套手段 策士の朋樹らしい 浴室の半透明なデザインガラスに映し出される身動く朋樹の曖昧なシルエットと その体を伝わり流れ落ちるシャワーの音がしきりに脳裏に侵入してくる ピンと張った筋肉質の逞しい腕が、髪から滴を迸らせているのだろう 日頃ビジネス用にきっちりと硬いイメージにセットした髪も自然の姿に戻り 鋭角な印象をもつ表情さえも和らぎ幼く感じさせる それこそが彼の素顔だ この身を預けてもなお広く余る胸が、息が詰まるほどに力強く抱きしめる二の腕が、 とめどなく高揚感を味合わせ絡める指先が 自分をどんな風に愛してくれるのか全て知っている 抱かれ慣れた躰が忘れるわけがない ゆえ反射的に求めてしまう 時折見せる少年のような純な表情、くせやしぐさ 自分だけが知る 自分だけのもの だからアンフェアなのだ 逆らえないと知っている 抑えようとする欲望を煽られ歯止めが効かなくなると これはある意味拷問と同じ仕打ち 『今日は帰ります』 立ち寄りそう伝えるずだった・・・ 浴室の外から声を掛け、マンションを後にしようと決心したはずなのに 誰に足止めされたわけでもない そのエリアに足を踏み入れた途端、 懊悩に拉がれた体がその場から動こうとしなくなってしまった それでも幸いなことに、呪縛はまだ心の最奥にある核までは支配していない もしかしたら それもすぐに虚しく征服されてしまうかもしれない 屈することの無い自分を信じて挑みたい気持ちと このまま何もかも捨て流されてしまえばいいと自棄な気持ち 二つの葛藤で胸元にぎゅっと握り締めた指先が手のひらに食い込み 汗を帯びては爪痕を残す 苦しむ心が表情にあらわれ 脱衣室の大きな姿見に今の弱々しい自分がありありと映し出されている 意気地がない、これでは最初から結果が見えているではないか 手段を間違えている今のままでは・・・何変わらない 日樹自身が自分の力で乗り越えていかなければならないこと もどかしくても見守らなければならないのだ がんじがらめの目に余る擁護だけではこの先、何も生まれてはこない あの日、義兄が無理やり封印してしまった傷ついた体と心 恐らく学校内部の者に性行為を強いられた日樹 加害者の名前も明らかにならぬまま 公になることを恐れ両親にもその事実は偽り伝え ひた隠しに朋樹の独断で名門校を退学ということで処理し終えた その間の日樹の意思も希望もいっさい無視した状況は後々まだ蟠っているはず 尋常ではなかった姿、 ただの暴行と片付けてしまうのではなく、当事者同士の間にあった真実を突きつめるべきだった その見返りがこうして義弟を一生 未然に事なきことで守り続けることなのだろうか 浴室の扉に身を寄り掛かからせ その指先を弱々しくひと指ずつ広げ、ガラス越しにあて添えれば この向こう側に居る朋樹がいずれ察するだろうと 貴方がいなければ自分は駄目になるのだろうか・・・ どうか手をくだす前に気づいて欲しい それが鏡の切なる願いだった シャワーの水栓がひねられ水音が止まった どうやらこちらから添えた手のひらと鏡自身のシルエットに朋樹が気づいたようだ 「どうした?」 エコーの効いた低音で囁かれれば、同時にガラス越しの朋樹の視線と合わさる 問いかける甘い囁きは、更に鏡の自由を奪っていく 立っていることさえままならない 体を支える下肢の力が弱まり不安定となったあげく 鏡はとうとうその場によろめき片膝を着いた 日々、当たり前に存在していたものを失いかける窮地 これほどまでに身を切られる思いだとは・・・ 「どうした?」 何も知らずに気遣う問いかけに心苦しく、全身が竦めば望むように応えられず 「帰るのか?」 黙するればさらに返事を求められるそれが誘いの言葉に聞こえてならない 帰るつもりだったんだろう?・・・ 自問自答してみる 無謀で不利な状況であるには違いなく この期に及んでまだ自分を信じることをできないのだろうか 自分の人生など堕ちるところまで堕ち、もう失うものなど無い・・・ そう認識していたつもりなのに いざ迷いの岐路に立たされ僅かでも自分に残っているものがまだあったと こんな状況で実感することになろうとは皮肉なものだ 「静那?」 名を呼ぶ愛しい声 私欲のために身を持ち崩すつまらない人間だったと蔑視されても反論できない自分をどうか呼ばないで欲しい 思い返しても裏切られる身には一度も置かれたことがない なのに、これから自分が冒そうとしている事態は主への背徳行為のほかなにものでもなく 応えられるはずがない あらゆるものを排除し続け、穢れないよう守り通すのは永遠には不可能だ そして・・・ 何度も何度も心の中で唱え言い聞かすことで今の脆い自分を支える どうやら痺れを切らしたのか、朋樹がこちらに歩み寄ってくるのが気配で伺える 来るであろうと、この短時間に想定はできていた 扉に手が掛けられノブがまわる寸前に 目を伏せ顔を背けこんな迷いだらけの状態を悟られないよう慌ててに取り繕う 扉が開けば浴室の湿気を帯びた温かい空気が脱衣室へ一気に押し寄せ 鏡自身をも包み込み、同時に本性を隠すための眼鏡が温度差で一気にくもり視野を塞いだ 扉が開けば浴室の湿気を帯びた温かい空気が脱衣室へ一気に押し寄せ 鏡自身をも包み込み、同時に本性を隠すための眼鏡が温度差で一気にくもり視野を塞いだ 目の前に立つのは 精悍で端整な顔立を、鍛えられた実用的な筋肉質の体型を 男の魅力を憎いほど持ちあわせている 愛しい・・・人 決して鏡が見劣りする体をしているというわけではない 細身ながらも均整の取れた美観のプロポーションはその比較に及ばない 浴室から脱衣室に一歩踏み出した朋樹の片足は床に水滴を散らし、 日の疲れを洗い流したボディソープの香りが柔らかに漂っていた そして差し出す腕がすうーっと鏡の目元へ伸びる 「な、何をっ!」 濡れた指先が肌に触れる、レンズのくもりを拭き取るより早くその手がフレームにかかる 「気に入らんな」 「朋樹さんっ!!」 眉尻を上げ、少し機嫌を損ねながら立ちはだかる朋樹の手には 鏡の眼鏡がすでにおさまっていた 不意の事で、頑なに言い聞かせた自分への支えなど跡形もない 見慣れているとはいえうっかり近距離で、更にはライトの下で煌々しく 今や心のほとんどを占領している張本人の裸体など見せ付けられてはひとたまりもない 「返しください・・・」 俯きながら悪戯に取り上げられた体の一部の返却を要求してみれば 「日樹と同じ・・・本心を相手に見透かされないために眼鏡でベールを作る、違うか?」 あくまでも装飾品には大した興味もわかない 一度確認したそれはすぐに手元に返された 「・・・・・・」 当の本人に至っては恥じらいもなく、全く堂々としたものだ 目のやり場に困りながらも鏡の頬は上気して染まり そのことに気づかれまいとすれば、 自分の裸体を見せているわけではないのにいっそう羞恥心を煽られる 「それはあくまでも外部からの要因だな」 朋樹の言うとおり、相手にしてみればたったレンズ一枚でも印象が変わるものだ しかし、ここまで他人を読み取れる人間が こと自分のことになると手薄になる部分が出てくるのを自覚できていないのが残念だ 「だが静那、お前からしてみれば見せたくないというよりも、 見たくない・・・気持ちの方が強いんじゃないか?」 耳元へ囁かれる穏やかな朋樹の声 「まだこだわっているのか」 「朋樹さん・・・」 「まだこだわっているのか」 「そ、それは・・・・・・いえ」 迷い、否定できないしこりがまだ残っているにも関わらず裏腹に答えていた 取り返しのつかない過去をいまだ拘っている自分を再認識させられる 「責めているのではないぞ」 そう 別段、朋樹に責める様子は見受けられないが 寛大な恩恵、慈愛を注がれながらも触れられてはまだ微かに痛む胸の片隅 「過去など塗り替えられないのだからな」 「わかって・・・います」 言われるまでもなく、ことの全てを全部承知で自分を受け入れてくれた 未来への兆しを絶たれ、 自虐的で人間としての感情を捨て去った生活をしていた自分を知るこの男に 瞬きもせず凝視する鋭い眼差しを向けられれば 偽りなどすぐに暴かれてしまう コンタクトに替え、視野の障害になるフレームやレンズがなくなれば きっと今以上に視界が開けるはず 囲みの中の世界が開放されれば、同時に飛び込んでくるものを受け入れなければならなくなる その勇気がない 一度手に入れたもの、それを失う時が必ず訪れるということを 嫌というほど思い知らされた今だからこそ敢えて自分で囲みを作っているのだ 自力で守れるものだけを小さな世界にしまい込み それ以上のものには一切目もくれず、気にも留めず 自分をも殻の中に閉じ込めてしまった 傷つかず自分を守る一番簡単な術 朋樹にはそうする鏡の根本がわかっている 見せ付けられる雄雄しく眩しい肢体に、脈が激しく打つ 高鳴る鼓動とともに、自分の体の一点に欲望の燻る熱が集まりはじめている 欲しがっている自分 以前なら、どんなにささやかな言葉ひとつで満足できたのに 今となっては随分と強欲になったものだ、と 鏡は愚かな自分を戒める 「求めてくればいい・・・」 労わりを含めたいつもと変わらぬ声で誘い呼ばれれば体が疼く 自分の醜さを隠そうと意識的に身をかがめれば さらに囁かれる誘いの言葉が目の前で手招きする 「何を躊躇ってる? ふっ・・・ そんな体では帰れまい」 早々に変化してしまった体も勘付かれている 何もなかったように、いつもと同じプライベートで見せる慈しみ深い瞳が、 先ほどの茶番などもう水に流すから、そんな余裕にさえ伺える 「・・・最近かまっていただいていませんので・・・」 こうなっては開き直るしかないだろう、とても誤魔化せる相手ではないのだから 無理と皮肉たっぷりで返せば、自慰でこと済ませるはずのない鏡を知る朋樹が 揶揄した物言いで嘲笑する 「それなら、自分で処理すれば済むことだろう」 売り言葉に買い言葉 「自分で慰めるより相手が居た方が良いですから・・・」 精一杯の切り返し、だが朋樹は鏡がこうして挑んでくるのを楽しんでいる ここまで誘き出されれば、もう逃げ場などない こんな体を晒してしまえば笑われてしまうのではないかと ネクタイの結び目を解き、朋樹が見届ける前でワイシャツのボタンをひとつ、そしてまたひとつ外していく じっと見つめる双眸の下で身を剥いでいく 自尊心も何もあったものではない 虚勢を張りながら晒す姿はあまりにも反している なんとも滑稽すぎてふと冷静に戻る瞬間、ボタンを外す手が止まる 情けない・・・ 「どうした、途中でやめるのか?」 せめて、 「見ない・・・ください・・・」 それで精一杯だった 前身のはだけたワイシャツから胸元が露出している こんな時にでも遠慮深けな要求しかできず、それも主は耳に留めず聞き流すだけ 中途半端に脱ぎかけた状態というのは、恥辱的でどうも相手ばかりを楽しませてしまうようだ 愛しているからこそ、安住を求め続けてきた だから、これが初めての逆らいになる 最後の砦だけを守り抜くと決め、それがどんな顛末を招こうとも・・・ 何度も繰り返す それから鏡はワイシャツ地の裾を躊躇いがちにギュッと握り込めた いささか痺れを切らしたのか、動作が緩慢になっている鏡にからかうような笑みを向けてくる それもそのはず 「すっかり体が冷えてしまったのだが」 「・・あっ・・・」 気づかなかった いつまでも待たせている自分を根気よく待ち続けていたのだ 湯でほんのり紅く染まった皮膚の色も冷めてしまい 見れば朋樹の体から発する湯浴み後の余韻も、室内に立ち込めていた湯気も もうこの空間内からいっさい消え浴室内は鮮明に見渡せる状態になっている 滴っていた水気もすっかり渇き、いまも徐々に体温を奪われている こんな時だろうが、気配りできなかった自分がひどく許せない 「手伝うか?」 「・・いえ・・・」 再び朋樹が手を差し伸べてくる 今まで何度も当たり前のように差し伸べられてきたこの手 その温かさ、心地よさと強さを知っている 思い返しても常に極上の待遇で扱われていた自分 だが、相手が差し出してくるのを待っているだけでは成立しない 自分が相手に差し出すことができ そして差し伸べられる・・・そんな関係でなければならないのだ いつかこの人に自ら手を差し伸べられるときが来るであろうか そらさずに見据える視線を受けながら 床に散らしていく着衣 屈服し、いよいよ身に纏う最後のものに手をかけ脱ぎ捨てれば 欲しくて、欲しくて抑えていた欲望が恥らう気持ちを押しのけ一気に剥き出しになる |